今日は診察の前に大事な予定があって・・・♪
去年からの約束がようやく実現し、しばし現実から離れていい時間を過ごしました。心にも体にもしっかり充電。このところ何かと堅苦しいことにばかり向きあってたので、ほんとに貴重なひとときでした。
さて、診察では、先生は何よりゴールデンウィーク中に無理をして調子を崩してないか心配してくださってたようで。前半3連休は夫の実家で気を張って頑張り、後半4連休は自宅で身の回りのことを片付けながらゆったり過ごしたことを報告しました。「何よりも無理をしないことが課題でしたので」と、一応及第点をいただきました。
先週は連休で診察がお休みだったので、今日は多分予約が詰め詰めだったと思われ、私もどうしても話したいことをとにかく・・・と気が急いて気が急いて。最低限のことは話せたと思いますが、枝葉のない幹だけの話になりがちでした。結論だけを性急に突きつけるような・・・。仕方ないのですが、切り捨てた枝葉の方に本当は聴いていただきたいことがあるのだという思いを拭えず、診察の後かなり落ち込んでしまいました。
日々思い、学び、考えていることには厚みや深さやふくらみが十分にあるのに、それを限られた中で伝えようとするとどうしてこんなに薄っぺらで借り物みたいになってしまうんだろう。
思いました。この診察に不全感を感じているのはきっと私だけじゃない。おそらく先生もまた、かみ合わない歯車のきしみを感じておられるに違いないのです。診察が上手く回るようになるまで経験では目安は1年。長い長い道を一歩一歩先生と一緒に進んで、ようやくお互いに実りある診察時間を持てたと実感できるようになる。だから、落ち込むけど、虚しいけど、積み重ねていくしかないのでしょう。
人は自分にとって慣れたやり方でないとなかなか安心できないのですね。私にとっては、質問されなくても先生が訊きたいことは自ら話せる、とか、今のように身体的な症状が出てるときは、初めに身体面、次に精神面、最後に生活面について話し合い、精神的なことについて話したことによるダメージを生活の話をしながら修復して終わるというやり方が一番落ち着くのです。
その自分なりのパターンがなかなか修正できないがために、次々質問されることに居心地の悪さを感じ、心の問題に触れた後始末が上手くできなくて気持ちが散らかったままになってしまうんだと思います。主治医が変わったのだから、これまでのパターンを変えなくてはならないのだけれど、それは簡単なことではないんだと薄々感じています。
3月、前の先生の診察が残り2回になったときから、終結に向けての話し合いに集中し、それはとても上手くいって、これ以上はないだろうというピリオドが打てました。そして4月、新しい先生に出会い、今は何事も一から話さねばならないことや時間の制約に追われて、唯一診察の場でのみ触れることが許される話が全く出来ていません。話せないことがつらくて、診察にはそういう意味もあったのかと気づきました。
今日、ジュンク堂で、福岡のジュンク堂に一冊在庫があるという本を取り寄せる手配をしてもらいました。『死別の悲しみに向きあう』(トーマス・アティッグ)。ものすごく前向きに死別と向き合い、そこから豊かに学んでその後を生きる実際的な方法が書かれており、悲嘆についての書物の中では異色のものです。死別後間もなくであったら、このような本はとても読めなかったでしょう。今だから解り、今だから活かせる、そんな気がします。
その本には生前のその人との関係ではなく、死後のその人との関係を新たに結び直すことにより、死別後の人生に適応していくという論が書かれています。忘れるのではない、思い出にしがみつくのでもない。死んだら終わりではなく、そこから始まる新しい関係がある。とても励まされることではありませんか?
そのために必要なことが、死後、亡き人の人生を十分に確かめることであり、実はそういう作業を診療所でしていたのだ・・・と思い至っています。日々の中では亡き人など私の人生に存在しなかったかのように振る舞うことを余儀なくされているのですが、診療所でだけはその人について語ることが出来たのです。同じことを何度も話したかも知れないし、新しいことを見つけ出して話したかも知れません。その繰り返しの中で、今の私と今の亡き人がもう一度つながりを結び、私自身適応的に日常に向かえるように少しずつ変わっていけたのだと思います。その作業はまだ完了してなくて、こうしてしばらく話す機会がないとたまらなく苦しくなります。
そういうことも含めて、今はいろいろと苦しい時期かも知れませんが、とにかく粘り強く今の先生との時間を重ねて、このしんどい時間も互いに笑って振り返ることが出来るときが来ることを信じていきたいと思います。
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